※以前書かせていただいた「海軍におけるマネジメント(艦隊勤務雑感)」を
復刻版で載せてみたところ、意外にもご好評をいただいたため、以前に書いたもの
ではなく、海上自衛隊退官後23年を経過してしまいましたが、現在の私が思い
起こし感じていることを書かせていただき、今後のメルマガに掲載させていただこう、
などという企みをしました。
前回のものと同様に、私のわずかな経験の中で見聞きしたことを、特に明確な意図
というものはなく、何とはなしに書いてみたいと思います。「艦隊勤務雑感」という副題
も、あえてそのままとさせていただきます。むろん、艦隊勤務を本望として20年間
生きてきた私のことであり、主に艦(「ふね」と読んでください。以後「艦」と「船」が
ごちゃごちゃに出てまいりますのであしからず)や海上自衛隊にまつわることでお話
を進めたいと思っております。
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前回の「あきづき」艦長、K2佐(当時)についての3回目です。前回も書いたとおり、
私は、その年の7月20日付で、呉の第3駆潜隊「おおとり」砲雷長として異動をしました。
私はK2佐から半年という短い間に、本当にいろいろなことを学んだと思っていますが、
その中でも、たった一度の機会をいただいただけなのに、それが非常に大きな経験として
私の中に残ったことについてお話ししたいと思います。
その時私はまだ異動の話はまったく聞いてもいなかったので、異動日のおよそ1カ月半前の
5月下旬くらいであったかと思います。場所も今となっては定かではないのですが、
館山湾であったか、あるいは大島の東方海面ではなかったかと思っています。
当日は、そこに仮泊(投錨)をすることになっており、これから入港作業にかかろうか
という時でした。入港時には、艦長の伝令の役割を担っている船務士である私は、
当然のごとく艦橋で入港要領について甲板作業指揮に当たる幹部とともに確認を
していました。その時、艦長が突然、投錨作業の指揮をする前部指揮官の水雷長に
「水雷長、きょうの投錨は船務士にやらせてくれ」というではないですか。
水雷長:船務士、大丈夫だよな‥‥?
私:は、はい‥‥。
とは言ったものの、幹部候補生学校卒業後の練習艦隊の実習中に一度やらせてもらったことは
覚えていますが、「あきづき」において通信士、船務士として過ごしてきた私には、
投錨の現場作業など、1年半近くまったく他人事とも言える状況にありました。
ここでは、あらためて資料を確認する時間もありません。私の頭に浮かんだのは、
実習中に覚えていた「白近、赤立、青起」という言葉だけです。これは投錨というよりは
揚錨する際の錨の状態を示す旗の色を覚えるためのもので、詳述は避けますが、
白が近錨、赤が立錨、青が起錨、というもので、それぞれの状況を艦橋に視覚的に示すもの
であって、投錨する際には関係のないものでした。入港要領の確認が終わると、
すぐに、「入港準備、前部員右錨用意」という号令がかかります。
慌てて自室に戻って、メガホンと号笛(ホイッスル)を首にかけて、一応甲板作業指揮のできる
格好になって前甲板に行きました。
晴天で風も弱く、前甲板に立つと艦の速力による風がわずかに感じられる
非常に心地よいものでした。艦首部分には前部指揮官が錨鎖を見るための張り出しの台が
設けられており、乗組員が「ここへどうぞ」と教えてくれます。一応、私も実習とはいえ、
一度はやっていることではありましたが、教範等の内容を思い出しながらなので気が気では
ありません。そのうち、艦は静かに投錨位置に進んでいき、ラッパとともに「入港用意!」
という号令がかかります。「さあ、いよいよ」です。前部にいる乗組員は砲雷科員ばかりであり
私の部下ではありません。一緒にハンドボールをしている仲間もいますが、みな興味津々
といった様子で私を見ているような気がします。足が震えはしませんでしたが、
背中を汗が伝い落ちていくのかわかりました。護衛艦は艦首、あるいはその直近に
ソーナードームという破損しやすいものを装備しているため、投錨は基本的には後進で
後ろにさがりながら行います。艦橋から「第一回錨位」という1年後輩の通信士の
ゆっくりとした声が響きます。後進がかかり艦は徐々に後退を始めます。
「第二回錨位」という声とともに、艦長の「錨入れ」の号令が響きました。
私が「スリップやれ」と声をかけます。すると、錨が落ちるのをたったひとつの
部品(スリップ)で止めていた金具を、乗組員が大きなハンマーで叩いて外し、
錨がゴーという音を響かせて海に落ちていきます。その後の私の役割は、
号笛と手信号を使って、艦が後進で下がるのを見ながら、水深に合わせて
錨鎖(くさり)の送出を抑止したり解放したりして、その長さを調節しながら
伸ばしていくのです。あまり頑張って抑止して錨鎖を引っ張ると錨を海底で
滑らせてしまいます。伸ばし過ぎると錨鎖がたるんでしまい、真っ直ぐに伸びなくなって
しまいます。水深に合わせた所定の長さに錨鎖を伸ばすために、無我夢中で号笛を吹き、
錨を伸ばしたり止めたりしました。
作業が終わって、「止め切り」という指示をしたところで投錨作業が終わることとなります。
この間数分間なのですが、私自身は無我夢中で何をしたのかよくは覚えていません。
私を監督していた水雷長が、「船務士、うまくできたじゃないか、立派なもんだ」と褒めて
くれましたが、何を褒められたのかさえわかりませんでした。そのまま艦橋に上がって艦長に
作業終了の報告をしたところ、艦長からも、「堂々としたもんだったぞ、次もまたお前が
やってみろ」とお褒めの言葉をいただきました。私が艦長から呉への異動の内示をされたのは、
その2週間後くらいだったと思います。その間にも、前回書いた蛇行運動やその他
東京湾内での当直士官としての実際の操艦など、船務士としての役割にはないさまざまな経験を
させてもらいましたが、実際の投錨をさせてもらったのは結局この1回だけでした。
7月20日に、呉の駆潜艇「おおとり」に着任しましたが、その後の駆潜艇術科競技のための
訓練予定が詰まっており、事前に学校にも行かせてもらえず、即日第3駆潜隊の訓練の
まっただ中に放り込まれました。この時は初めても何もありません、砲雷長としてやるしか
ないのです。着任後3週間もたたないうちにその機会はやってきました。当時、秋に行われる
駆潜艇術科競技を目指して地元開催部隊として何としても優勝を果たさなければならない
第3駆潜隊は必死の状況にありました。月曜日の朝、呉を出港して豊後水道付近での訓練が
金曜日の夕刻まで続きます。通常夕刻には佐伯湾にある佐伯基地分遣隊という基地の桟橋に
横付けをすることが多いのですが、どんな状況だったかは記憶にありませんが、
佐伯湾に入ることができずに高知の宿毛湾に夜間に投錨することになったのです。
宿毛湾にも艦隊の指定錨地があるのですが、比較的水深が深い湾であって通常の
投錨ではなく深海投錨という方法になるのです。
私の前の配置が「あきづき」通信士、船務士であることを知っている艇長からは、
「大丈夫か‥‥」と声をかけられますが、間違っても「できません」とは言えません。
運用員長S1曹も、「砲雷長、投錨は大丈夫ですか‥‥」と遠慮がちに声をかけてくれました。
「わかりませんが、あきづきでもやったことあるので大丈夫です。何かあったら
助けてください」と答えてはみましたが、ただでさえ心配なのに、暗い灯りを頼りの
夜間の深海投錨です。ここでの成否が乗組員からの爾後(じご)の信頼にも響くという思いも
強くありました。2000トンを超える「あきづき」から見れば、400トンそこそこの
「おおとり」の錨は小さいもので、錨鎖も小ぶりでかわいいものでしたが、
その機構や動き方などはまったく同じものなのです。深海投錨というのは、
水深20~25メートル近いところに錨を入れる場合、予め10メートル程度錨鎖を伸ばして
錨を海中に浸けた状態で投錨位置まで進みます。そして前進から後進にして、
そのまま錨を入れるのです。錨が着底するまでの距離を短くして、その衝撃を和らげる
ためのものなのですが、真っ暗な中で、ふね(艇)の速力をも見ながらの作業ですから、
不安も大きなものがありました。しかし、少しずつ錨地に近づいていく際に私が感じたのは、
なぜか、予期したよりも自分の腹が据わっているということでした。たった一度の経験
ではあったのですが、「あきづき」でとりあえずはやれた、ということが自分の中でどれだけ
大きなものとして残っているのか、ということをあらためて感じることのできた瞬間であったと
思います。投錨作業を終えて艦橋に上がり、艇長に作業終了の報告をした際に、
艇長から、「砲雷長、お前自信持ってやれているな、これなら術科競技も大丈夫だ」
と言われたときに、駆潜艇への異動を踏まえてさまざまな体験を私にさせてくれた
「あきづき」艦長K2佐に対する感謝の気持ちが、更に強く感じられたものでした。