※弊社のメルマガに以前書かせていただいた「海軍におけるマネジメント(艦隊勤務雑感)」を復刻版で載せてみたところ、意外にもご好評をいただいたため、20年前に書いたものではなく、退職後28年を経過してしまいましたが、現在の私が思い起こし感じていることを書かせていただき、今後のメルマガに掲載させていただこう、などという企みをしております。前回のものと同様に、私のわずかな経験の中で見聞きしたことを、特に明確な意図というものはなく、何とはなしに書いてみたいと思います。「艦隊勤務雑感」という副題も、あえてそのままとさせていただきます。むろん、艦隊勤務を本望として20年間生きてきた私のことであり、主に艦(「ふね」と読んでください。以後「艦」と「船」がごちゃごちゃに出てまいりますのであしからず)や海上自衛隊にまつわることでお話を進めたいと思っております。
そろそろ年末ともなり、みなさんお歳暮を考えたり、年賀状や年始の挨拶などをどうしたものかと考える時期になってきたことと思いますが、本年(2019年)10月下旬の新聞記事に次のようなものがありました。
「役員らが多額の金品を原発のある福井県高浜町の元助役から受け取っていた問題を受け、関西電力は28日までに、幹部が取引先などから受け取る中元や歳暮を原則として辞退することを決めた。まずは役員が中心となって管理職まで広げ、全社的に取り組むことも検討していく。」
私は何か今更、という思いとともに、そのような風潮が、さまざまな組織にあることに驚きましたが、あらためて、海上自衛隊で勤務をしてきた私自身にはそのような感覚がなかったことに思い至り、そのことについて今回は書いてみたいと思います。
昔々、とはいっても私が3等海尉、2等海尉であった頃ですが、陸上自衛隊に進んだ同期生から、お中元やお歳暮だけでかなりの出費になるという話を聞いたことがあります。私の伯父が叩き上げの警察官だったのですが、警察署長時代の伯父の署長官舎の応接間には、お中元、お歳暮の時期になると、座りきれないほどに贈答品が山となっていたことを鮮明に記憶しています。わが家も、私自身もかなり頻繁に、かつ大量にそのおこぼれに預かったものでした。最近ではだいぶ変わったとは思いますが、元々警察予備隊として発足し、当時の上層部には警察出身の方が多かったためなのか、旧陸軍からの慣習なのか定かではありませんが、当時の陸上自衛隊には色濃く残っていたものと思われます。
海上自衛隊に進んだ私たちには、このような苦労はまったくありませんでした。旧海軍以来の伝統と言われており、「虚礼は不要」ということが当然のこととして定着しており、極めて合理的な考え方をしていたものとその頃でも感心をしていました。お中元、お歳暮などを部内でやり取りすることはまったくありませんし、年賀状や暑中見舞いなどについても、職場の上司に書くことも不要というか、禁止というか、良くないことといったイメージで捉えていたように思います。もちろん、これまでの勤務でお世話になった上司や先輩に異動後の挨拶状を出すことは普通に行われていました。ただし、私の感じ方としては、形式的に印刷しただけの挨拶の葉書を出すことについては、これも虚礼のようなものではないかと、その頃から感じてもいたのです。
私にそう感じさせてくれたのは、防衛大学校に勤務しておられたO2等陸佐(当時)でした。O2等陸佐は、私の防大のクラブの顧問で、3学年、4学年時に大変お世話になった方なので、卒業後江田島の幹部候補生学校に入校した際に、型どおりにこれまでの先輩の例に倣って葉書に印刷した挨拶状を送りました。夏に護衛艦実習で横須賀に入港し、同期と連れだって防大に行った際にO2等陸佐にも挨拶に行きました。その際に、「挨拶状ありがとう‥‥。ただ、折角挨拶状をくれるなら、印刷しただけのものを形式的に送るのではなく、一言で良いので、『元気でやっています‥‥』『厳しい毎日です‥‥』くらいの簡単なもので良いので、近況、気持ちを書き添えないと、挨拶状を送った君の気持は伝わらないぞ」と言われました。私は、「申し訳ありませんでした、これからそのようにします」とお詫びをしてO2等陸佐と別れましたが、それ以来、形式だけの挨拶はやめよう、という気持ちを強く持つこととなりました。そのため、現在でも年賀状には必ず一言、二言は自分の手で書き添えることを心がけています。できることなら、宛名も自分の手で書きたいところですが、忙しさを言い訳にパソコンを使って印刷しておりますが。
ところが、その後更に驚くことがありました。それは私が青森の大湊で勤務しているときのことで、毎週の指揮官会議(私は常に隊司令の幕僚(副官)という立場で陪席をしておりましたが)の席で、当時の大湊地方総監Y海将(故人)が次のようなお話をされました。Y海将はこれまで何度かこのコラムにもご登場いただいていますが、元々非常に優しい方なのですが、当時は極めて厳しい対応をされる指揮官として大湊の部隊中で畏敬の念を持たれていました。特に、文書、文章にはうるさい方で私なども隊司令の名で発した命令書の文面をサンプルにされて、全指揮官の前にOHPで映し出されて、「これが日本語か‥‥?」と直接に叱責をいただいたことも一度や二度ではありませんでした。
総監曰く、「私のところには挨拶状や手紙といったものがたくさん来るが、ここを離れて新任地に着任した際に、葉書で挨拶状を送ってくるバカモノがいる。これまでの勤務の中で本当にありがたかった、勉強になった、今後こうしていきたい、ということをたった1枚の、それも印刷した形式的な葉書で送りつけられても、その気持ちも心情も理解はできない。形式的なものとして送っているのなら、それは海上自衛隊で不要としている虚礼に過ぎないではないか‥‥。」
私も、それはそうだと思いましたが、総監は更に続きのお話をされました。「挨拶状というものは、特に直近までお世話になった相手には、封書で出すのが当たり前のことだ。内容は便せん1枚でも2枚でも良い。そうでなければ、気持ちを伝えることはできない」というものでした。
私は、その言葉を聞いてしばし考えてしまいましたが、まず頭に浮かんだのは、時間的にも、すばらしい文章を書くのも、ましてや拙い手の私にとっては大変に敷居の高いものと思われました。そんな私の表情を読み取られたのか否かは定かではありませんが、Y海将が突然に、大声で
「32護隊隊付、わかったか‥‥?」と末席の、更に隅にいた私に向けて言われたのです。私はその場で直立不動の姿勢をとって、「大変よくわかりました‥‥!」と大声で答えたのですが、Y海将は、ニヤッと笑みを浮かべただけで返事もして頂けませんでした。
その1年後、私が異動する際のことでしたが、Y海将は、1等海尉である私を総監室に呼ばれて直接労いの言葉をかけてくれました。「32番砲の暴発による一般乗客の負傷」などと新聞紙面を賑わした大事故の事後処理に腐心したことに対する労いが主たるものでした。異動後、Y海将に対して私は封書で挨拶状を送りました。すると、Y海将からは直筆の封書のお手紙をいただき、大湊で私が苦労したことへの労い、私に勉強させたかったこと、更に上の立場に立つ上での留意点やご自身の経験などが丁寧にしたためられていたのです。これには、私は直接目の前で叱責されたときよりも驚きました。一言で言うなら、「やはり、偉くなる人というものは違うんだな‥‥」ということであったと記憶しています。
更には、その後、二度、三度、更にその先も、私が退官するまで異動のたびに封書で挨拶状を書きましたが、Y海将はその都度、新しい勤務、勤務地での留意点やご自身の経験などをていねいに書いたご返事をいただき続けたことは、今もって驚いていると同時に、自分自身が同じように後輩にしていかなければ、ということを強く感じさせてくれたところでした。同時に、本当の意味での挨拶状・お礼状と、虚礼と言われてしまう形式的な挨拶状・お礼状というものの違いについて、私自身の中で真剣に考える機会をいただいたことと思っております。