※弊社のメルマガに、以前書かせていただいた「海軍におけるマネジメント(艦隊勤務雑感)」を復刻版で載せてみたところ、意外にもご好評をいただいたため、20年前に書いたものではなく、退職後28年を経過してしまいましたが、現在の私が思い起こして感じていることを書かせていただき、今後のメルマガに掲載させていただこう、などという企みをしております。前回のものと同様に、私のわずかな経験の中で見聞きしたことを、特に明確な意図というものはなく、何とはなしに書いてみたいと思います。「艦隊勤務雑感」という副題も、あえてそのままとさせていただきます。
むろん、艦隊勤務を本望として20年間生きてきた私のことであり、主に艦(「ふね」と読んでください。以後「艦」と「船」がごちゃごちゃに出てまいりますのであしからず)や海上自衛隊にまつわることでお話を進めたいと思っております。
1986年11月に伊豆大島三原山が大規模な噴火をしたことをみなさんは覚えておられるでしょうか。11月15日に始まった噴火は、19日昼ごろには内輪山の内側が溶岩で埋め尽くされ、溶岩が内輪を超えて北西部からカルデラに800メートル流れ出しました。噴火を見ようと5000人を超える観光客が押し寄せるなどしており、噴火は一旦小康状態となりました。しかし、21日になるとカルデラ北部で地震が頻発し、16時15分には、カルデラ床からの割れ目噴火が発生、観光ムードだった島内の空気は一変しました。大島町役場は直ちに対策本部を設置しましたが、17時46分には外輪山外の北西山腹からも割れ目噴火が始まり、溶岩が斜面を流れ下り3000人が住む元町集落に迫りました。波浮港には大型船が接岸できないこと、地震活動の南東部への移動、波浮港周辺での開口割れ目の確認など、噴火の更なる拡大が懸念され、22時50分には全島避難が決定されました。
私はその年の春に護衛艦「はるゆき」水雷長として着任したので、着任後半年くらいが経過した頃かと思います。艦艇部隊の水雷関係者のパーティが横須賀市内で行われ、「はるゆき」が所属する第1護衛隊群司令も出席されていました。そのさなかに大島の大規模噴火についての情報が、切れ切れではあるものの伝えられてきましたが、各部隊がどのような動きになるのかについて明確な情報はなく、護衛艦勤務者はばたばたと動き始めました。「はるゆき」艦長も出席していたので、私としては正確な情報をつかみたいのですが、現在のように携帯電話等で簡単に連絡がつく時代ではありません。公衆電話で「はるゆき」に連絡をしようとしても、まずは総監部の交換台が出ない、やっとつながったものの艦には確たる情報がなくどうなるのか予測もできません。当日、「はるゆき」は横須賀の吉倉港岸壁(JR横須賀駅の目の前)に僚艦の「いそゆき」の外側に係留されており、近く中間修理の予定があるとはいえ、緊急事態ではすぐに出港ということも想定されました。私は、艦長にここまでの状況報告をして、自分はすぐに艦に戻ること、艦長には速やかに帰宅していただき連絡を待っていただきたいことを伝えて「はるゆき」に帰りました。
帰ってみると、当直士官が待ち構えていて、「艦長に連絡をしたがまだ帰られていないが、どうしたのか」とのことです。「少し前に別れたばかりなので、あと20分もすれば電話がかかりますよ」と言って着換えを始めました。その最中に、隊勤務の2年先輩O1尉が私の部屋のドアを叩いて、「水雷長、きょうは艦長と一緒だったよな、艦長はまだ帰らないのか」と言ってきました。「連絡がついたら戻ってくると思いますので、少しお待ちください」と言うと、「司令が呼んでいるから来てくれ」というのです。早速、作業服のままですが、隣に係留中の「いそゆき」の士官室に跳んでいくと、隊司令から「艦長はまだか、『いそゆき』が出港するのに、外側の『はるゆき』が動けないのではどうしようもないぞ、艦長はどこ行った」と来ました。このような隊司令の言動は日常の中で想定の範囲であり、私はあまり驚きもせずに、「間もなく連絡がつくので、至急帰ると思います」と言いましたが、「この大事な時に艦長がいないとは信じられん‥‥!!」といった調子です。私は「はるゆき」ではなく「いそゆき」が出港するという情報を「はるゆき」に持ち帰り、いつでも係留替えの準備ができるように指示をして、伊豆大島付近の海図、当日の天気図、予想天気図等を士官室に準備して艦長の帰りを待つことにしました。そのうち、航海長をはじめ各幹部や一部を残して乗組員も次々と帰艦してきており、いつでも係留替えはできる状況になりました。
10分もしないで、またもや隊司令からお呼びがかかりました。行ってみると同じことの繰り返しです。「この大事な時に艦長がいないとは信じられん‥‥!!」「きょうの水雷会はお前も一緒だったんだろう?」
私は何も言い訳もできないので、ただ沈黙を守るだけでしたが、それが尚更司令の疳にさわるようでもありました。黙って戻ってきたのですが、それから5分も立った頃、再度お呼びがかかりました。仕方なく行ってみると、また、同じことの繰り返しです。「いったいいつになったら帰るんだ‥‥、何を考えているんだ『はるゆき』は‥‥、今すぐ呼んで来い」というだけです。司令の居ても立ってもいられないといった気持ちはわからないわけではないものの、またまた、司令を怒らせることは承知ですが、私は沈黙を守って戻ってきました。私としては、「水雷長を怒鳴って気が済むならそれでもいいか‥‥?」という気持ちを持ったのを覚えています。「はるゆき」の舷門に戻るとちょうど艦長が戻ってきたところで、もともと太っ腹の艦長は、悪びれるでもなく黙って艦長室に入り、その後司令のところに行かれました。そこでどのようなやり取りがあったかはわかりませんが、艦長は意外にも泰然としていたのを覚えています。私も艦長に問い質したりもしたのですが、なぜ遅かったのかの理由については、最後まで艦長の口からは明確にされませでした。結局のところ、司令が大声で怒鳴ろうが、私に罵声を浴びせようが、艦長が帰ってくることでしか解決はできない事柄であり、それは艦長自身の行動の結果だけなのです。結果的には、艦長の帰りが少し遅かったとはいえ、「いそゆき」は、想定した時刻よりも早く「はるゆき」の内側から舫いを解いて出港したのです。指揮官として「待てない」「我慢できない」ことがどのようなものであるか、緊急時において求められる対応とはどのようなものであるのかを痛切に感じさせてくれたことは、私にとっての貴重な経験でもありました。
反対に、私の防衛大学校時代の思い出をひとつ。昭和47年度の自衛隊音楽祭りにおいて、私は1年坊主でしたが、防大儀仗隊の一員としてファンシードリル展示のため、東京体育館(翌年からは現在に至るまで日本武道館で行われていますが)の出場口で出番を前に待機をしていました。1年生ながらメンバーに加えてもらい、初めての出番だった私は本当に緊張していたのを今でも思い出します。その時何が起こったかというと、M1ライフルを格納してある銃架(銃を立てかけて保管するための台です)の鍵を誰かが持ったまま所在がわからず銃が取り出せないというのです。あと2つが終わったら私たちの出番です。4年生で隊長のIさん、航空要員で航空自衛隊を定年退官された今でもOB会等で親交のある方ですが、数名の3、4年生に、「早く探せ‥‥!」と指示をしたきり、以後一言も発しませんでした。周りのメンバーが、「誰が持っていた?」「おまえ知らないのか‥‥?」と騒いでいても、じっと前を向いたまま何も言いません。おそらくわからないと騒ぎだしてから10分程度の時間だったと思いますが、私にとっても緊張した時間でもあり、もし見つからなかったらどうなるのだろう、と心配でいても立っていられないような時間だったことを覚えています。ところが出番の直前になって、「ありました、ありました」と言って、一人の3年生が鍵を持って戻ってきて、結果としては事なきを得たのですが、「もし‥‥?」「万が一‥‥?」を考えると、隊長のIさん、一言も発することなくじっと待っていたのですが、その心中いかばかりであったかと思いますし、ましてや、責任者として、当事者としては相当に厳しい局面に立っていたことと思います。21歳か22歳の若者でもこのくらいのことができるのです。1年坊主であった私にも、「指揮官とはかくあるべし‥‥」と強く認識したことを鮮明に記憶しているのですが‥‥。