※以前書かせていただいた「海軍におけるマネジメント(艦隊勤務雑感)」を復刻版としてメルマガに載せてみたところ、意外にもご好評をいただいたため、退職後19年を経過した現在の私が当時を思い起こして感じていることを書かせていただきました。これまでのものと同様に、私のわずかな経験の中で見聞きしたことを、特に明確な意図というものはなく、何となしに書いてみたいと思います。「艦隊勤務雑感」という副題も、あえてそのままとさせていただきます。むろん、艦隊勤務を本望として20年間生きてきた私のことであり、主に艦「ふね」(以後「艦」と「船」がごちゃごちゃに出てまいりますのであしからず)や海上自衛隊にまつわることでお話を進めたいと思っております。
海上自衛隊というと誰もが艦(ふね)すなわち、護衛艦のことを思い浮かべることと思います。しかし、実勢力としては、およそ半分は航空部隊にあり、海上防衛の多くは航空機という存在に頼っているのが現実です。海上自衛隊にはP-3C哨戒機約90機、SH-60K、あるいはSH-60Jというヘリコプターが、やはり90機近くあります。
P-3Cは、北は八戸から南は那覇までの各航空基地に展開しています。現在、ソマリア沖、アデン湾での海賊対策としてジブチに展開しているのもこのP-3Cです。また、ヘリコプターは、千葉県の舘山基地、長崎県の大村基地をはじめ、徳島の小松島、青森県の大湊などに展開しており、そのうち多くのものが、護衛艦に搭載して艦載ヘリコプターとして任務に当たっています。
そもそも、海上自衛隊の艦艇部隊、航空部隊には大きな「組織間の壁」と思われるものが立ちはだかっていました。組織的にも縦割りになっており、オペレーション(作戦遂行)においても、相互に協力するよりは、それぞれの立場や生い立ちにかかわる認識の違いが殊更に強調されていたように思います。特に訓練の前後の研究会などで顔を合わせると、相手の弱い部分だけを指摘し合い、互いに邪魔者扱いをしていました。自己の領分を侵されまいという防衛的な意識がそれぞれに働いていました。そのため、いつも不毛の議論がなされていたように感じています。私自身もそのことを、「おかしい」と思いつつも、やはり、艦艇部隊の考え方に同化しつつあったのを覚えています。
しかし、今ではその壁はほとんどなくなっていると思っています。なぜそうなったのかと言いますと、ただ、護衛艦にヘリコプターを搭載して運用することになったからです。私が若い頃には、まだヘリコプターを搭載した護衛艦は「はるな」「ひえい」「しらね」「くらま」という当時にしては大型の4700~5000トン程度のものにそれぞれ3機ずつ搭載したものだけでした。私が部隊勤務を始めて5年目、昭和57年頃にヘリコプターを1機だけ搭載して運用する「はつゆき型」という2950トンの汎用護衛艦が就役し、以後、続々とヘリコプター搭載の護衛艦の就役が続きました。目指したところは、護衛艦8機、搭載ヘリコプター8機による、「8・8艦隊構想」であったのです。(この名称には、大正時代に戻ったような印象を持たれる向きもあることとは思いますが・・・・)
多くの護衛艦がヘリコプターを搭載し、ヘリコプターが艦(ふね)をプラットフォームとして活動することになって、海上自衛隊という組織は劇的に変化したのです。艦艇部隊にとって、それまで敵対関係とも感じていたヘリコプターが、自分自身のセンサーの一部となり、ウェポンの一部となったのです。こうなると、いかにそれを有効に使うかを考えるようになるのは当然であり、護衛艦はヘリコプターの邪魔をしないように行動し、ヘリコプターも護衛艦の存在を尊重してオペレーションをするようになりました。航空機の整備員は護衛艦乗組員となり、航空機搭乗員とは個人的にも話をする時間が劇的に増えたのでした。そうなると、護衛艦に搭載することのないP-3C哨戒機に対する理解も深まっていき、それから3~4年という比較的短い時間の中で艦艇乗組員と航空機搭乗員相互の対立意識は雲散霧消したように記憶しています。
やはり「組織の壁」をなくすには、同じ目標に向かっているというだけではなく、ともに行動することであり、同じ釜の飯を食うような関係になることが大切な事を痛感しました。ちなみに、私が見た艦載ヘリコプターの搭乗員というのは、本当に勇猛果敢であり、いにしえの「零戦の搭乗員もかくあったのでは‥‥?」と思わせるものがあり、その意味でも船乗りにはない敬愛すべき一面があったことが、そのような対立意識を打ち消した一因であるとも思っています。それは、今でも変わっていないと思うのですが‥‥。
▽最後に・・・▽
皆さま、いかがでしたか?今月も楽しんで頂けましたか?
来月もまた、盛りだくさんの内容で皆さまにお届けしたいと思います。
是非お楽しみに・・・。