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パートナーコラム 紺野真理の「海軍におけるマネジメント」
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第51回:指揮官に求められるもの

※以前書かせていただいた「海軍におけるマネジメント(艦隊勤務雑感)」を
復刻版で載せてみたところ、意外にもご好評をいただいたため、以前に書いたもの
ではなく、海上自衛隊退官後23年を経過してしまいましたが、現在の私が思い
起こし感じていることを書かせていただき、今後のメルマガに掲載させていただこう、
などという企みをしました。
前回のものと同様に、私のわずかな経験の中で見聞きしたことを、特に明確な意図
というものはなく、何とはなしに書いてみたいと思います。「艦隊勤務雑感」という副題
も、あえてそのままとさせていただきます。むろん、艦隊勤務を本望として20年間
生きてきた私のことであり、主に艦(「ふね」と読んでください。以後「艦」と「船」が
ごちゃごちゃに出てまいりますのであしからず)や海上自衛隊にまつわることでお話
を進めたいと思っております。

***

昭和54年7月に、私は25歳で広島県の呉にあった第3駆潜隊「おおとり」砲雷長として
着任をしました。今では考えられない400トンばかりの漁船のようなふね(艇)ではあり、
4隻でひとつの駆潜隊と称して、主として豊後水道や紀伊水道沖における潜水艦の
脅威に対する海域防御が主任務でした。小さなふね(艇)なので、着任したばかりの
初任幹部が、停泊中に沖を通るフェリーの波で揺られて船酔いをしたり、波静かと
思われる瀬戸内海の伊予灘あたりで大きく揺られてみたりとか、今では考えられない
ようなこともあったものでした。(とかく、「内海の虎」などと自称(?)していたものでも
ありました)この「おおとり」で私は、対潜水艦捜索用のソーナーや対潜水艦攻撃兵器としての
魚雷、ヘッジホッグ(多連装の対潜ロケット)、爆雷、それに40ミリの連装機関砲を所掌して
いました。今回のお話は、その本業ではなく、災害派遣出動が命じられた際のお話です。

着任して5カ月ほどたった12月頃であったと記憶していますので、大がかりな駆潜艇術科競技
も終え、多少は自信も持ち始めていた頃でした。呉近傍の野呂山という山で火災が起こり、
かなり燃え広がっていたようでした。付近の消防の手には負えなくなり、民家への被害も
予想される事態となったことで、自衛隊に災害派遣要請がなされました。海上自衛隊としては
呉地方隊挙げてその対応をすることになったのですが、中でも、当時呉地方隊に所属する
艦艇部隊である第36護衛隊と第3駆潜隊には、生きのよい若い隊員も多いため、多人数での
派遣防火隊(消火隊)の編成が求められました。わが「おおとり」にも10数名の割当てがあり、
部署の割当から見ても当然のごとく砲雷長である私が指揮官になるところでした。
12年先輩である「おおとり」艇長も、当然のように私を指名し、私も初めての経験に緊張は
したものの、気持ちは奮い立ち、「よし、やってくるぞ」という気持ちになっていました。
しかし、そんな時にそれは起こったのです。「おおとり」には、60数名の乗組員の中に、
艇長を含めて6名の幹部(士官)がおりました。その中に定年まであと2、3年で、
最年長ではありますが、階級的には最も下位である叩き上げの機関士M3尉が、
私に向かって次のように言ったのです。「今回の指揮官は若い者が行ってはいけんよ‥‥」
とんでもありません、私はもう自分が行く気になっており、派遣隊の編成も進んでいます。
今更辞めるつもりはありませんので、「機関士、ここは若い者に任せてください」と
胸を張りました。するとM3尉の口から出た言葉は驚くべきものでした。

「若い隊員は火を目の前にすると、逃げるのではなく火に向かっていってしまいます。
自ら飛び込んでしまうんです。わしゃ、そんなことを何度も見てきているし、自分自身の
若い時もそうやったです。それを押しとどめるのが現場の指揮官の務めなんです。
残念だが今回のことはあんたには無理やからわしが行きます」
私は、「そんなことはないですよ、(さすがに、お年寄りには‥‥、とは言えませんでしたが)
私で大丈夫です」と反論をしました。しかし、M3尉、今度は艇長に向かって、
「艇長、わっしは本来が応急(艦の火災を含めての被害対処)の専門家です。若い砲雷長の
気持ちは痛いほどわかるしそれは大切にしてもらわないけんが‥‥、現場では隊員の命が
かかっとります。ここは私に行かせてください」じっと思案していた艇長でしたが、
「わかった、機関士、あんたに頼むわ‥‥」となってしまいました。私の中では、悔しさが
広がってはいましたが、M3尉の言うこともわからないわけでもなく、それ以上
何も言えませんでした。結局、この時の災害派遣においてはM3尉を指揮官にして
おおとりの派遣隊(消火隊)が送られてしまったのです。結果としては火を目の前にしての
消火活動に至るまでのことはなく終わったことを覚えています。しかし、普段物静かで
おっとりとした機関士M3尉のあの時の迫力ある言葉、態度には、これまでの経験の中で
培ってきたであろう現場を知る者だけが持つ自信と責任感とともに、真実の言葉といったものが
感じられたことは、私の中でも忘れられないこととなりました。

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