第59回:海の上は政治の延長(下)(サイパンのクリスマスソングが聞こえる) « 個人を本気にさせる研修ならイコア

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パートナーコラム 紺野真理の「海軍におけるマネジメント」
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第59回:海の上は政治の延長(下)(サイパンのクリスマスソングが聞こえる)

※以前書かせていただいた「海軍におけるマネジメント(艦隊勤務雑感)」を
復刻版で載せてみたところ、意外にもご好評をいただいたため、
以前に書いたものではなく、海上自衛隊退官後23年を経過してしまいましたが、
現在の私が思い起こし感じていることを書かせていただき、
今後のメルマガに掲載させていただこう、などという企みをしました。
前回のものと同様に、私のわずかな経験の中で見聞きしたことを、特に明確な意図
というものはなく、何とはなしに書いてみたいと思います。
「艦隊勤務雑感」という副題も、あえてそのままとさせていただきます。
むろん、艦隊勤務を本望として20年間生きてきた私のことであり、
主に艦(「ふね」と読んでください。以後「艦」と「船」がごちゃごちゃに出てまいります
のであしからず)や海上自衛隊にまつわることでお話を進めたいと思っております。

***

海の上は政治の延長(下)(サイパンのクリスマスソングが聞こえる)

「私が本当に驚いたのは、ある日自衛艦隊司令部のオペレーションルームに行った際に、
日本列島の周辺に、軍艦、情報収集艦なども含めて、10数隻のソ連艦船が遊弋している
という実態に触れた時でした。」

というのは第57回で書いたとおりですが、今回は、その情報収集艦を追いかけた時の
お話です。それは私が護衛艦「はるゆき」に勤務して2年目になっていた時のこと、
昭和62年暮のことですから、前述の「あきづき」の時からは8年、大湊の第32護衛隊での
勤務の時からは5年くらい経ち、3等海佐にもなりだいぶ経験を積んでからの
ことになります。12月も半ばになってからだったのですが、ソ連の情報収集艦が房総沖で
遊弋中という情報が入りました。この艦が何のためにこの海域を遊弋しているのかを
調査する必要が生じたのですが、第43護衛隊「はるゆき」に急遽出港が命じられました。
その情報収集艦が房総沖を遊弋していることは、東京湾に出入の際に何度か現認していた
のですが、その艦に対する監視の役目が自分の艦に降ってくるとは夢にも思っていません
でした。燃料は入港時に満載していますが、急遽、真水や生糧品(野菜、肉等の生もの)
を積んですぐに出港したのを覚えています。東京湾を出ると、すぐに当該情報収集艦に
出会います。当面はその艦の状況を確認するのですが、1日経ってからその艦が少しずつ
南下を始めました。「はるゆき」も任務ですから追尾をしつつ南下をします。
しかし、艦長以下誰もが1日か2日で任務が終了して横須賀に帰投することを
疑っていなかったのです。しかし、時間の経過とともに状況は変わってきました。
このまま南下が続くのではないか、ということが現実味を帯びてきたのです。
海上自衛隊の艦艇部隊では、通常年末年始には、乗組員を半舷(右舷・左舷)ずつ
2つに分けて休暇を出します。この時も出港の4日後には、前期の休暇員を出すところ
だったのですが、対象艦がどんどん南下をするのに合わせて、休暇員が予定どおり
年末の休暇に入るのは困難と思われる状況になりました。
当然休暇を予定している者の中には、故郷に帰るための新幹線や飛行機のチケットを
予約している者もあります。艦長から横須賀地方総監部に電報を発信して、
予約便のキャンセルの依頼まですることになりました。
いつ入港できるのかもわからないのではそれも仕方がないのですが、
「予定はソ連の情報収集艦に聞いてくれ」とでも言いたくなる状況でした。
また、横須賀入港後、休暇が台無しになった前期の休暇員に対してどのように休暇を
取らせるのか、ということについては艦長以下頭の痛いことでもあります。
その後も当該情報収集艦はどんどん南下を続けていきます。伊豆七島は当然のように
過ぎてしまい、孀婦岩(そうふがん)を横目にしてとうとう小笠原も過ぎました。
それからしばらくして、私の耳に飛び込んできたのは、米軍の放送による
クリスマスソングでした。おそらくサイパンからのものだったのですが、
そのクリスマスソングを聞いて、初めて、「こんなところまで来てしまった‥‥!」
という気持ちになったのを覚えています。そうなると、「はるゆき」の燃料や生糧品が
不足するであろうことは予測されることであり、司令部では補給艦の出港が
準備されたようで、呉から補給艦が出港した、という情報が入りました。
「ということは、われわれはまだまだ帰れないのか‥‥」というのがその時に
「はるゆき」乗組員全員が感じたことでもあったのです。
その2日後に、補給艦が現場海域に到着したのですが、そのタイミングで、
当該情報収集艦に対する監視任務は航空機に引き継がれることとなり、
「はるゆき」は帰投できることとなったのです。
厚木から飛んできたP-3C哨戒機が到着して相互に状況の確認をしましたが、
スピーカーを通して聞こえてくるのがどうも聞き覚えのある声なのです。
戦術航空士(TACO)で機長である同期のS君が、具体的にどうとは言えないながらも、
私に語りかけるようにしているのがわかります。
もちろん、私的な交話をするわけにはいかないのですが、私もCICの船務士から
マイクを取って、感謝と以後の任務遂行への想いをこめて、
自ら「サンキューベリーマッチ」と応答したのを覚えています。
その後、はるばる呉からやってきた補給艦と会合して洋上で燃料を補給するとともに、
いくらかの生糧品も搭載しました。その際に補給艦からはアイスクリームも届けられ、
それが本当においしかったことは今でも忘れられません。
旧日本海軍の給糧艦「間宮(まみや)」の伝統未だ健在といったようにも感じられました。
とはいえ、一刻も早く横須賀に帰りたいのは誰もが同じで、満載した燃料を使って、
高速用ガスタービンの出力も全開にして、速力の遅い補給艦をその場に残して、
「はるゆき」は北上、横須賀に向けての帰投針路としました。
補給艦と手を振って別れる際には、折角ここまで来てもらったにもかかわらず、
任務を終了して帰るという後ろめたさがありながらも、母港に帰りつくのは
こちらの方が早く、その補給艦では乗組員の年末年始の休暇をどのように調整するのか、
ということを思うと決して他人事ではなく、大変に申し訳ない気持ちがしたものでした。

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