第25回:映画「山本五十六」見ました « 個人を本気にさせる研修ならイコア

ホームサイトマップお問合わせ・資料請求
パートナーコラム 紺野真理の「海軍におけるマネジメント」
サービス内容事例紹介講師紹介お客様の声コラム会社概要

第25回:映画「山本五十六」見ました

※以前書かせていただいた「海軍におけるマネジメント(艦隊勤務雑感)」を
復刻版としてメルマガに載せてみたところ、意外にもご好評をいただいたため、
退職後19年を経過した現在の私が当時を思い起こして感じていることを書かせて
いただきました。これまでのものと同様に、私のわずかな経験の中で見聞きした
ことを、特に明確な意図というものはなく、何となしに書いてみたいと思います。
「艦隊勤務雑感」という副題も、あえてそのままとさせていただきます。
むろん、艦隊勤務を本望として20年間生きてきた私のことであり、主に艦「ふね」
(以後「艦」と「船」がごちゃごちゃに出てまいりますのであしからず)や
海上自衛隊にまつわることでお話を進めたいと思っております。

正月が明けて、映画「山本五十六」を見た、という方に何人もお会いしました。
今回は予定を変更して、私自身がこの映画を見て感じたこと(登場人物)について
述べてみたいと思います。長岡藩士を祖先に持ち、自身が長岡高等学校を卒業した
半藤一利の著書が原作だけに、山本五十六が美化されているようには感じましたが、
全体としては史実に忠実に描かれていると思われました。映画の中では人物について
の解説は一切ありませんでしたが、みなさんは誰が誰だかおわかりになったでしょう
か。演じた俳優さんと人物の関連付けとして、読んでいただければと思います。

役所広司演じる山本五十六は本当に良かったですね。私は、「最後の忠臣蔵」でも、
昔々の「シャルウイダンス」もですね。柄本明の「海軍大臣米内光政」、柄本明はNHK
の坂之上の雲でも乃木大将を演じただけに素晴らしいのですが、偉大な米内さんが
あれだけではちょっとかわいそうかな・・・。玉木宏の「東京日報若手記者真道利一」は
かっこよかったです。「東京日報宗像景清主幹」を演じている香川照之はさすがでし
た。間もなく歌舞伎役者として復活するというのも、なるほどといったところですね。
阿部寛演ずる「山口多聞第二航空戦隊司令官(中将(少将)」、真珠湾攻撃にもミッド
ウェイでも重要な進言をしても受け入れられず、ミッドウェイの海に消えた正に帝国海
軍の次のエースと言われた人です。三宅参謀を演じた吉田栄作もかっこいいですね。
私が今回、特にみなさんに知ってほしい1人は、坂東三津五郎の演じた「堀悌吉(海軍
予備中将)」の存在です。さすが大物歌舞伎役者の演ずる役柄には味と深みがありま
すね。堀悌吉は、山本五十六の同期であり親友と言われ、山本五十六も高く評価して
いた人物であり、映画でもそのように描かれています。「海軍兵学校創立以来未だ見
ざる秀才」と言われ、同期生の間では「神様の傑作のひとつ堀の頭脳」という句が残っ
ていたとも言われています。艦隊派と軍政派などと言われた政争の中で予備役編入と
なり、それと時を同じくしてワシントン条約の破棄が米国に通告され、以後日本は建艦
競争から日米開戦へと向かっていったのです。堀悌吉は日本飛行機社長、浦賀ドック
社長として海軍をバックアップし、戦後、昭和34年5月12日76歳でなくなりました。もう
1人が柳葉敏郎演ずる「井上成美海軍軍務局長」です。井上成美大将(帝国海軍にお
ける最後の海軍大将)は、映画の中にあったように、海軍省軍務局長として米内海軍
大臣、山本海軍次官とともに日独伊三国軍事同盟に反対し続けた人物です。山本五
十六がその中心と言われることが多いのですが、あるとき山本五十六が書記官に「世
間ではオレを三国同盟反対の親玉のようにいうが、根源は井上なんだぞ」と不機嫌そ
うに語ったこともある、という話もあります。映画の中で、海軍兵学校長を命じられて、
山本五十六に挨拶に来ているところがあり、山本五十六が「これからの日本の人材を
育ててほしい」と言っていましたが、彼はそこでいやいや(映画の場面では)江田島の
海軍兵学校長として赴任するのです。
しかし、彼の育てた多くの人材が、戦後、全国の大学で学び、戦後の日本を作っていく
ことに大きく貢献したことは間違いのないところです。卒業年次を切り上げられたり、
軍事科目に偏っていた兵学校教育を本来の教育に戻したり、これまでの流れに任せ
ずに新しい考え方を生み出していったのです。野球の試合でアウトもセーフも言えな
かった中で、海軍兵学校では校長方針で最後まで受験科目に英語を残し、英語教育
を行っていたのです。

最後になりますが、あと1人は伊武雅刀が演じた「永野修身海軍軍令部総長」です。
映画の中では反山本五十六的に描かれていますが、戦後、真珠湾攻撃作戦を許可
した責任を問われA級戦犯容疑者として極東国際軍事裁判に出廷します。
裁判途中の1947年1月寒さのため急性肺炎にかかり巣鴨プリズンから聖路加国際病
院へ移送後、病院で亡くなりました。裁判中、自らにとって有利になるような弁明はせ
ず、真珠湾作戦の責任の一切は自らにあるとして、戦死した山本五十六に真珠湾攻
撃の責任を押しつけようとはしなかったと言われています。
最後まで帝国海軍軍人として振舞い、この裁判での姿勢を見たジェームズ・リチャード
ソン米海軍大将は真の武人と賞したとも言われています。

急な変更で申し訳ありません。次号では、前回の続き、JST(日本標準時)とGMT(グ
リニッジ標準時)の違いについて、を掲載いたします。

Copyright (c) 2024 e-Core Incubation Co.,Ltd. All Rights Reserved.  Web Produce by LAYER ZERO.