※以前書かせていただいた「海軍におけるマネジメント(艦隊勤務雑感)」を
復刻版としてメルマガに載せてみたところ、意外にもご好評をいただいたため、
退職後19年を経過した現在の私が当時を思い起こして感じていることを書かせて
いただきました。これまでのものと同様に、私のわずかな経験の中で見聞きした
ことを、特に明確な意図というものはなく、何となしに書いてみたいと思います。
「艦隊勤務雑感」という副題も、あえてそのままとさせていただきます。
むろん、艦隊勤務を本望として20年間生きてきた私のことであり、主に艦「ふね」
(以後「艦」と「船」がごちゃごちゃに出てまいりますのであしからず)や
海上自衛隊にまつわることでお話を進めたいと思っております。
3月11日(日)、1年前のあの日に思いを馳せた方も多かったのではないでしょうか。
私も、昨年のあの時は、横須賀にある企業の研修所で大きな揺れを感じた後、社員の
安否が確認できるまでの間、悶々としたことを思い出します。テレビでは震災関連の
ものが多く放送されていました。そして、ある番組の中で、宮城県の村井知事が細野
大臣に番組の最後で訴えていたのが、インフォメーション(情報)の重要性でした。
村井知事は皆さまご存知かと思いますが防衛大学校28期、陸上自衛隊のパイロット
だった方です。村井知事は、「国からはさまざまな支援をいただきありがたく思って
います。ですが、必要な情報が、特に原発関連のものについてはマスコミ経由でしか
入ってこないのでは困ります。」ということでした。これを聞いて、私は昔々のある
ことを思い出しました。
当時、私は青森県大湊(むつ市)に所在した、第32護衛隊という部隊の対勤務
(隊付きと呼称されていました)をしていました。3隻の護衛艦を指揮する第32護衛隊
司令K1等海佐(大佐)の幕僚兼副官といった配置ですが、昭和56年7月に着任したので
27歳の終わり頃、若造の2等海尉(中尉)でした。私の直接の部下は、同じ階級ですが
はるかに年長の幹部1名、40代の海曹(下士官)が数名ですが、部隊そのものには
400名に近い乗組員がいました。ある訓練の途上、天候が悪化したため、訓練を中止
してどこに仮泊して低気圧を避けるかが隊司令の当面の課題となりました。
東通村の尻労(シッカリ)沖(下北半島の北東側)には錨を打って避泊できる場所は
あるのですが、東に向けて海が開かれているので東よりの風が吹くとまずい、また、
やや遠浅の砂地のため錨の係りにはやや不安がある、といった検討をしました。K1佐は
厳しいが慎重な方で、いつも「現場に行ってみないと分からんな」ということで、
部隊は尻労沖に向かいました。当然、隊司令と私達司令部要員は先頭をゆく「きたかみ」
という艦に乗艦しています。命令としては無線電話を通して「尻労沖に向う、針路○○○
速力△△」と指示しており、部隊はそのとおり動いています。午後10時過ぎに尻労沖に
着きましたが、風向き等状況が悪化したため、反転北上し、津軽海峡に向いました。
当初は東よりの風を避けて、北海道の福島町沖の錨地に向うということでしたが、
ここから、隊司令の意図が二転三転してしまい、途中で仮泊をとりやめ、そのまま走り
続けて翌日の訓練に備えることになってしまいました。
結局は翌日の訓練は午後からの実施となりましたが、ほぼ予定した内容を実施するこ
とができ、当初日程より1日遅れて翌々日、無事に母港の大湊に帰投しました。入港する
と当然、各艦長が隊司令のところに集まるのですが、その際、後続していた艦の艦長Y2佐
から私はひどく叱責を受けたのを覚えています。何を叱られたかというと、後続している
各艦では、指揮官の意図がわからず、今後どうしようとしているのか、明日の訓練は無理
してでもやろうとするのか、とりやめようとするのかもわからない、というものでした。
「そんな不安な中で艦と乗員の安全を守って訓練ができるか・・・、指揮官の発する命令とは
別に、その意図をインフォメーションとして知らせるのが幕僚の務めだろ・・・。」という
ことだったと記憶しています。Y2佐は私が学生時代の指導教官だった方で、厳しいけれど
とても温かみのある方だったのですが、この時は本当に怖く感じたことを覚えています。
そんなことは私の頭の中ではわかっていたつもりでしたが、実際の私は現場でどうする
のか、指揮官である隊司令にどんな情報を提供するのかに没頭しており、後続の艦のこと
まで考えることができませんでした。実際の場においては何もできない自分が情けなくなる
とともに、「幕僚」(スタッフ)というものの役割と重要性について初めて本気で考え、
思い知らされた出来事でもありました。