※弊社のメルマガに以前書かせていただいた「海軍におけるマネジメント(艦隊勤務雑感)」を復刻版で載せてみたところ、意外にもご好評をいただいたため、20年前に書いたものではなく、退職後28年を経過してしまいましたが、現在の私が思い起こし感じていることを書かせていただき、今後のメルマガに掲載させていただこう、などという企みをしております。前回のものと同様に、私のわずかな経験の中で見聞きしたことを、特に明確な意図というものはなく、何とはなしに書いてみたいと思います。「艦隊勤務雑感」という副題も、あえてそのままとさせていただきます。むろん、艦隊勤務を本望として20年間生きてきた私のことであり、主に艦(「ふね」と読んでください。以後「艦」と「船」がごちゃごちゃに出てまいりますのであしからず)や海上自衛隊にまつわることでお話を進めたいと思っております。
今回は私的な私の体験ではあり、あまり教訓的なものがないことは承知の上で書かせていただきます。日本の中で少子化が問題視されている中でも、一昨年、弊社の社員(男性)に第二子が誕生しました。個人的にも、会社としても、国としても大変おめでたいことではあるのですが、親となる当人にとっては、責任の重みなど多くのことを感じる出来事でもあります。二人目ということもあり、当人は一人目のときよりは意識していないようにも見えましたが、予定日が近づいて、“そろそろ”という段階に入った頃ですが、なかなか“産まれた”という連絡がありません。私に他意はありませんが、「まだなのかい……?」と聞くと、毎回、「まだなんです……」という返事です。咎めているわけではないのですが、毎日聞いているうちに、「まだか……?」となぜか聞き方がきつくなっているような気がしていました。まあ、予定日よりは前なので、産まれなくて当然であるのかもしれませんが、そんなやり取りをしている中で、私の中に同じようなことを逆の立場で受けた昔々の記憶がよみがえってきたことを思い出しました。今回はそのことを書いてみたいと思います。
1980年(昭和55年)4月に東京で結婚式を挙げ、呉で新婚生活を始めて4か月目、私は、駆潜艇「おおとり」(砲雷長)から、同じ呉を母港とする護衛艦「なつぐも」に航海長として着任しました。それは夏も盛りの8月11日のことでした。妻が身籠ったことを知ったのは、その2か月後くらいだったと思いますが、当時、「なつぐも」は海上自衛隊の新鋭部隊であることを自負する第1護衛隊群の1艦でした。1か月、2か月の長期連続行動が当たり前になってきていた頃のことだったこともあり、年が明けて1981年(昭和56年)に、妻は大事をとって茨城県土浦市の実家で出産するために呉を離れました。私自身着任後半年近く経過していることもあり、航海長としての勤務にもだいぶ慣れてきている頃でした。4月中旬の出産予定日が近づいてもまだ産まれる気配はなく、妻は1週間前になっても自転車で買い物に行っているなどと言っているような状況でした。艦長のK2佐(あきづき艦長だった名人K2佐とは別の方ですが)は、操艦も上手く、厳しい中にも人間味のある方でした。いろいろと厳しい指導ながらも私を大きく成長させてくれた方でもあるのですが、妻が妊娠したことを報告すると、「布団の上げ下ろしのようなことはさせてはいけない」「……は気を付けろ」「そんなこともさせるな」と細々としたことを教えてくれたものでした。ある日のこと、
艦長:そろそろかな……?
私 :まだなんです……。
翌日も同じ会話が交わされます。次の日も同じでしたが、そのうち、予定日も迫ってきます。
しかし、まだ兆候すらないような状況でした。予定日になって、
艦長:もうそろそろ産まれるだろう……?
私 :いやー、まだなんです……。
更に次の日、だんだん、艦長の口調が厳しくなってきます。
艦長:まだなのか……、おかしいな?
艦長の口調が厳しくなってきているのを見かねた副長S3佐が、「艦長、最初の子は遅れるっていうから、仕方ないですよね……」と言ってくれたのですが、
艦長:そんなことはわかっとる、しかし、それにしても、いったいどうなってるんだ……!
その翌日には艦長の口調はこれまで以上に厳しいものとなっていました。
艦長:いったい、いつになったら産まれるんだ……?
こんなことで私が叱られる筋合いがないことは当然なのですが、叱られている私自身はあまり嫌な思いをしていなかったことを覚えています。そうですよね、艦長がなぜ、私の子供が産まれるのをそんなに気にしていたのかというと、次の長期行動に向けての出港が一週間後に迫っていたのです。艦長は口には出しませんが、産まれたという連絡があったら、私をすぐに妻の実家である茨城県の土浦まで行かせようと考えてくれていたのです。艦長の口調の厳しさが頂点に達したその日に、「無事出産、母子ともに健康」という連絡が入り、私は艦長の「早く行って顔を見てこい」という声に送られて、休暇をいただき土浦市内の病院に行き、妻と長男の顔を見た後に、出港の三日前には呉に戻ることができました。広島空港(現広島西空港)から飛び立ったYS-11は、現在では考えられない低い高度で飛行していたため、呉の港に係留している「なつぐも」「みねぐも」「むらくも」の3隻が手に取るように見えたものでした。眼下に「なつぐも」の姿を見ながら、艦長が、何とか出港までに子供の顔を見せてやりたい、洋上で電報だけで産まれたことを知らされて、2か月余り顔も見ることができないことにならないように、どれだけ気を揉んでくれていたのかなど、艦長の口調が日に日に厳しくなっていったことの意味について、しみじみと考えてしまいました。