※弊社のメルマガに以前書かせていただいた「海軍におけるマネジメント(艦隊勤務雑感)」を復刻版で載せてみたところ、意外にもご好評をいただいたため、20年前に書いたものではなく、退職後28年を経過してしまいましたが、現在の私が思い起こし感じていることを書かせていただき、今後のメルマガに掲載させていただこう、などという企みをしております。前回のものと同様に、私のわずかな経験の中で見聞きしたことを、特に明確な意図というものはなく、何とはなしに書いてみたいと思います。「艦隊勤務雑感」という副題も、あえてそのままとさせていただきます。むろん、艦隊勤務を本望として20年間生きてきた私のことであり、主に艦(「ふね」と読んでください。以後「艦」と「船」がごちゃごちゃに出てまいりますのであしからず)や海上自衛隊にまつわることでお話を進めたいと思っております。
私がフルマラソンを始めて10年になりますが(とはいっても年に1回参加するだけですが)、毎回30キロ近くになってエネルギーが切れてくると、体力的にきつさを感じるだけではなく、思考までが弱気になります。マラソンについて書いたものを読むと、「エネルギーが切れると脳が嘘をつく」と書いてあるものもあります。嘘をつくかどうかは別にして、30キロから40キロの間は何回となく「やめて棄権する理由」を考えているのは毎回のことです。「ここで無理をするのは良くない!」「もし、倒れてしまったら、来週の仕事でお客様や社員に迷惑をかけるな!」とか、「もう年齢も年齢だから、これ以上無理するのは無謀だ……!」などなどです。ですから、通常は20キロ、30キロのところで、エネルギーチャージのためのゼリー等を摂っており、沿道に用意されているバナナなども口にしたりします。まさに、「腹が減っては戦(いくさ)ができぬ」なのですが、それは単に体力的に戦えないだけではなく、精神的にも戦えなくなることを意味していることと思います。
「腹が減っては戦(いくさ)ができぬ」とは、そもそも戦うことを主たる任務としている武士が語った言葉とは思いますが、それがなぜ、一般庶民が使う言葉として広まっていったのでしょうか。私たちは子供のころから耳にしている言葉ですが、いったい、どこからきた言葉なのでしょうか。調べてみたものの確たる答えはないようですが、私は歌舞伎を見るようになって、その中でこの言葉が語られるのを聞いて、はたと思ったことがありました。というのは、歌舞伎(というか文楽)の三大演目と言われる「義経千本桜」という狂言(芝居)の中で、義経を恋い慕って追いかける静御前を捕らえようとしている鎌倉側の追手が出てきます。その首領が「逸見藤太」という名の半道敵(はんどうがたき)で、道化のようなおかしみを見せる敵役なのですが、この「逸見藤太」が花四天(はなよてん)といわれる軍兵を引き連れて花道を登場する際にこの台詞が出てきます。
「とかく軍(いくさ)というものは、腹が減っては出来ぬもの、そこらに茶屋があるならば、
飯を炊かせろ、合点か」
と、面白い抑揚をつけて軍兵に声をかけながら登場してきます。私はこれを見て、聞いた時に、一般大衆が、芝居くらいしか娯楽のなかった時代に、この狂言(芝居)を見て、この言葉を日常の中で会話に載せるようになったのではないか、と思ったのですがみなさんいかがでしょうか。
それは、ずいぶん昔のことになりますが、私が防衛大学校卒業後、江田島の幹部候補生学校時代、そのことを実感した経験したことについて書かせていただきます。入校後半年経つか経たないかの頃であり、夏から秋にかけてだったと思います。幹部候補生学校の訓練はいろいろありますが、中でも特色あるものとして「帆走巡行」というものがあります。読んで字のごとくカッター(短艇)に乗って、それを人間が漕ぐのではなく、風の力で航海をする訓練です。まあ、カッターを使ったヨット訓練と思っていただければ良いと思います。天候に恵まれれば、風をつかんで心地よく航海できるのですが、風がほとんどなかったり、あっても向かいの風であったりした場合には、自分達で漕いで進む必要があります。風が強すぎる場合は帆を張っておくことができないため降ろすしかないこともあります。このような天候の変化の中で、船の針路を見定めながら、安全に、確実に、そして予定どおりに目的地に向けて航海する術を実場面において体験させようとするのがこの訓練の大きな目的であったことと思われます。具体的には、3日間ほどの日数をかけて、各艇ごとに自由に寄港地と航路を決めて航海し、最終的に定められた目的地に到達するという制約があるだけの訓練でした。もちろん、候補生だけではなく教官も1人乗っていました。そんな訓練の際の出来事でした。
当初は快適な航海が続いていたのですが、昼前に、にわかに雲が沸き上がり、気味悪いほどに風の方向が変わるなど、天候急変の兆しが表れました。風が強くなるにしたがって、そのまま帆を揚げているのは危険な状態になってしまいました。帆を降ろす必要が出てきたため、一旦停止していたのですが、そのうちに風が強くなり、それも四方から回りながら吹くようになってきました。明らかに前線の通過を示していました。海の上にいる身としてはかなり危ないところです。それでも、日ごろの訓練の賜物であり、それぞれに役割を果たしながら整斉とそれぞれがやるべきことをやって、まずは安全に航海を進めていたのですが、雨はやまないものの、少し小降りになり風も収まってくると、寒さが身に応えるようになりました。私自身、歯の根が合わないだけでなく、黙っていると体の中から震えが起こるのを感じました。周囲を見回すと、みな同じような状況であり、多くは黙って下を向いて震えをこらえていました。私は自分の気持ちがだんだん後ろ向きになっていき、「このまま航海を続けるのは無理ではないか」などと考えていましたが、その時に空腹感というものは感じていなかったと思っています。
気持ちまでが萎えて後ろ向きになっていく私たちの様子を見ていた7期先輩の教官K1尉は、「どうだ、寒いか……?」と聞くのです。当たり前です。誰もが寒くて寒くて、とは言っても、着ているものは当然ながら、持ってきた毛布も濡れてしまっており、寒さをしのぐ術がありません。全員の口から、「寒いでーす!」という声が上がったとたん、K1尉が、「そうだな、それじゃ、缶詰を出せ」と言われたのです。「缶詰?」私は、「こんな状況で何を言ってるんだ……?」と口には出さなかったものの、肚の中でつぶやいたのを覚えています。誰も同じ気持ちだったと思います。その様子を見たK1尉、「とにかく、何でもいいから、缶詰を出して開けろ」と言われて、自らも箱から赤飯と牛肉の缶詰を取り出して配り始めたのです。みな怪訝に思いながらも教官が指示することなので従っていたわけですが、多少小ぶりになったとはいえ、まだ雨が止んだわけではありません。
「こんな中で何が食事だ……?」
というのが私たち候補生全員が感じていたことだったと思います。缶詰を開けてみても、赤飯の上には雨がすぐにたまってしまい、おいしく食べられるわけがありません。それでも開けてみるとなぜか空腹を感じていたようでした。一口、二口と口に入れ始めました。しかし、驚いたのはその後のことです。更に一口、二口を口に入れて、牛肉を箸の先につまみ始めたとき、なぜか体の震えがなくなっているではないですか。私は大変驚きましたが、周囲のメンバーの顔色もみるみる生気が感じられるようになってきており、私自身もさっきまでの寒さ、だるさはどこかへいってしまい、雨もさほど気にならないくらいに元気になってきたのです。
そんな様子を見たK1尉、
「どうだ、まだ寒いか……?」
全員の答えは、「NO」でした。もちろん服も濡れており、寒さはありましたが、なぜか体の中からの震えは不思議となくなっており、気持ちも前向きになり、なぜか力がわいた気がするのです。
K1尉:「そういうことだ、人は燃料がないと生きていけないんだ、『腹が減っては戦はできないよ』、よく覚えておきなさい、体でな……」と言って大きな声で笑っていました。