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パートナーコラム 紺野真理の「海軍におけるマネジメント」
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第82回:現場のことは現場にしかわからない

※弊社のメルマガに以前書かせていただいた「海軍におけるマネジメント(艦隊勤務雑感)」を復刻版で載せてみたところ、意外にもご好評をいただいたため、20年前に書いたものではなく、退職後28年を経過してしまいましたが、現在の私が思い起こし感じていることを書かせていただき、今後のメルマガに掲載させていただこう、などという企みをしております。前回のものと同様に、私のわずかな経験の中で見聞きしたことを、特に明確な意図というものはなく、何とはなしに書いてみたいと思います。「艦隊勤務雑感」という副題も、あえてそのままとさせていただきます。むろん、艦隊勤務を本望として20年間生きてきた私のことであり、主に艦(「ふね」と読んでください。以後「艦」と「船」がごちゃごちゃに出てまいりますのであしからず)や海上自衛隊にまつわることでお話を進めたいと思っております。

  「第81回:指揮官の判断、処置について」において、「現場のことは現場にしかわからない」ということを書きましたが、今回はそのことについて書いてみたいと思います。新型コロナウィルス感染拡大の影響による非常事態宣言も解除されたとはいっても、まだまだ大変なことも多いかと思います。弊社においても3月に入ってから、在宅勤務を実施しているのですが、テレビや新聞を見ていても、学校の休校、イベントの自粛、不要不急の外出自粛など、世の中の動きがストップしている感を呈していました。学校の休業などが始まって2週ほどたった頃、社員からの報告の中に、「お客様(某大手企業)と電話で話をしていると、その会社や関係の取引先ではほとんどの社員が出社して仕事をしており、街にも人が多く、電車も満員ですよ」と言われてしまい、在宅で仕事をしている自分の感覚とはずいぶんかけ離れているという感想が含まれていました。外から見ているものと、実際に現場において見えるものとはかなり違っているのだろうと思いました。
 企業において事故や不祥事が起きたり、被害が大きくなったりした際に、責任者の判断や処置を批判されることはテレビや新聞でよく目にされ、耳にされることと思います。やれ「事実を隠蔽している」「本当のことを言わない」などと批判されることも多く見られます。そんな時に私はいつも、「現場のことは現場にしかわからないんだ……」と思ってしまいます。現場の判断が正しかったのか、誤っていたのか、外からいろいろと批判をすることは簡単なことではありますが、その状況の中で、限られた時間やさまざまなリスク、更には自らにかかる心理的な重圧と闘いながら判断をしたことには、それなりの重みがあるものと思っています。

 第32護衛隊隊勤務(隊付)として大湊(青森県むつ市)で勤務していた時、私は28歳でした。昭和57年8月1日、青森港沖で大湊地方隊の展示訓練実施中、当隊所属の護衛艦「おおい」が一般客を多数乗艦させて航行中、後部にある32番連装速射砲(3インチ:76ミリ)が空砲を詰めた状態で予定外に発射され、その砲口の先にいた一般客27名と隊員5名が負傷をした事故が発生しました。翌8月2日の朝刊の紙面を飾るところだったのですが、たまたまというか何といいましょうか、その日は新聞の休刊日でもあり、結果として夕刊に載ったのですが、九州から関東地方にかけて台風10号による大きな水害があったため、限られた紙面となって少しほっとしたものでした。
 私の手元に、8月2日の夕刊の記事があります。各紙ありますが、一番大きく取り上げていた読売新聞の記事には次のように書かれています。
 『自衛艦で空砲暴発』公開航行中に32人けが」という大きな見出しに始まり、
「1日午後1時30分ごろ、青森港の北約8キロの海上で、編隊航行を一般公開していた海上自衛隊大湊地方隊総監部の第32護衛隊護衛艦「おおい」(〇〇〇〇艦長、1470トン)の後部3インチ砲に込められていた空砲が突然暴発し、薬きょうのふたに使用されていた段ボール紙の破片が、砲の前15メートルに扇形の範囲に飛び散った。このため付近にいた一般市民27人と自衛隊員5人の計32人が、段ボール紙の破片を顔や手足に受けたほか、耳鳴りなどの聴覚障害を受け、青森市内の病院で手当てを受けたがいずれも2、3日の軽傷」
 この事故の起こった状況や原因については、隊勤務(隊付)であった私自身の反省も含めて、どこかでみなさんにお伝えしたいとは思っていますが、私の中ではあまりに大きな出来事であるため、私の言葉で語るには、もう少し時間が必要かと思っております。そのため、今回は、事故の詳細や原因等については触れませんが、その時に私が感じた大きなこと、「現場のことは現場にしかわからない」ということについてお伝えしたいと思っています。
 
 事故の発生直後、護衛艦「おおい」は、大湊地方総監(以下、「総監」といいます)に状況報告をし、直ちに隊列を離れて青森港に入港しました。岸壁には救急車がたくさん来ており、まずほっとしたのもつかの間、すぐに私を悩ませたのは、マスコミのみなさんの動きでした。まだ状況もわからないので何も言えないのですが、「責任者を出せ……」というので、隊司令K1佐が岸壁に降りてしまったのですが、さまざまな質問、それも巧妙な誘導的な質問や叱声を浴びせられ、這う這うの体(ほうほうのてい)で「おおい」に戻ったことを記憶しています。翌日の記者会見は大湊地方総監部が前面に立って対応してくれることになったので、私としては肩の荷を軽くしてもらった気がしました。各紙に暴発と書いてあるのは、隊司令の報告第一報が「暴発」という言葉で始まったために、記者発表でもその言葉がそのまま使われてしまったことによるものと思いますが、実際は暴発ではなく、一人の射撃員の若い隊員が自らの手で引き金を引いているのです。その当時の砲の引き金というのは、片手でさわっても落ちることはなく、しっかりと両手で握ることで発射されるものなので、正確に言えば、打ってはならない状況において、あってはならない不注意によって発射をしてしまった、ということなのです。隊司令としても総監に報告する必要もあり、現場の状況については刻々と報告が上がってきており、私自身の手でその資料を作成していました。夕刻になって、隣の岸壁に停泊中の輸送艦「ねむろ」にいる総監のところに、私が一人で資料を持って報告に行きました。その資料には、「32番左砲の誤発射」と記していたと思います。士官室のソファに座って資料を見ていた総監Y海将が、
「隊付、これは左砲で間違いはないんだな……?」と聞かれました。
私:「はい、間違いありません」      総監:「そうか……」

 私は「おおい」に戻ってきました。ところがです、戻ってみると、2期後輩の砲術長Y2尉と部下の射撃員長が待ち構えていて、「隊付、申し訳ない、左砲ではなく右砲だったんです」ときたのです。
私は、「だって、左だって言って、あれだけ確かめたと言ってたじゃないですか」
二人は、「そうなんだけど、良く調べてみたら、やはり右だったんですよ」というだけです。
隊司令に報告すると、「隊付、悪いがもう一回総監のところに行ってきてくれ」ということで、私は、再度、輸送艦「ぬむろ」に赴きました。
私は、深々と最敬礼をしてから、「総監、本当に申し訳ありません。誤発射をしたのは右砲でした。確認不足で本当に申し訳ありませんでした」と声を小さくしていったのを記憶しています。
総監:「ほんとか……?、さきほどは左と言ったではないか、いったいどっちが正しいんだ?」
私  :「本当に申し訳ありません。右です。右で撃ったことに間違いありません」
私の顔をじっと見ている総監に、本当に申し訳なく思いながらもそれ以上の弁明も何もできません。そして、ふたたび「おおい」に戻ると、先ほどの二人がまたも揃って、「隊付、申し訳ない、やっぱり左だった、左だったんです」

 これには私も開いた口が塞がらないといった状況になりました。「右か左かぐらい、なんでわからないのですか?」「いったい、何を考えて調査しているんですか?」などと悪態をついたような記憶があります。それでも、隊司令も、私としてもそのままにするわけにもいかず、私は重い足を引きずりながら「おおい」の舷門を出て輸送艦「ぬむろ」に向かいました。青森では8月1日からねぶた祭りが始まっており、その近傍は「ねぶた囃子」がこだましていましたが、それを本当に暗い気持ちで聞いていたことが今でもありありと浮かんできます。私は今でも「ねぶた囃子」は本当に苦手で、テレビのニュースなどでその音を聞くだけでも、あの時の暗い気持ちと胃の痛みがよみがえってくるような気がしてしまいます。
 輸送艦「ねむろ」の士官室に入ると、私を認めた総監が、
「何しに来た……?」ときました。
私は、「総監、何とも申し訳ありませんと申し上げるしかありませんが、実際は左砲でした」
総監は、「なに……?」と言ったきり、下を向いて目をつぶってしまいました。
私は直立不動のまま、総監が目を開けてくれるのを待ちましたが、5分くらいだったかと思いますが、短い時間がどれほど長く感じられたことか。総監はそれについては、何も言わずに一言だけ、「左ということでいいんだな……?」「しっかり確認しなさい、明日は記者会見があるんだから」と言われて、私の顔を少し優しげな表情で見てくれました。
私は、「本当に申し訳ありませんでした」と言って、すごすごと輸送艦「ねむろ」の舷門を降りて「おおい」に帰りました。

 私にも言いたいことはたくさんありました。「一体どうなっているんだ」「おおいは本当に護衛艦なのか……」「何を調査したっていうんだ……」などなどですが、それは伝えることなく終わりました。その日の夜は、隊司令ともども眠れぬ夜を、「おおい」の士官室で過ごしたのですが、その際、隊司令から、
「隊付、言いたいことはいろいろあるだろうけど、『おおい』の現場がそれだけ混乱をしている、いやしていたということだ。それを責めることは簡単だが、自分が現場の指揮官だと思ったら、人のことを責める気にはならないだろう。現場のことは現場にしかわからないんだよ」
そして、更に、「そんな混乱した中で、どれだけ、しっかりと情報を集めて、正しい判断に結びつけられるかどうか、われわれがこれを教訓としていかなければならないということだ」
 「ねむろ」士官室で最後には私に対して叱責や小言を言わず黙って目を閉じた総監とは、このコラムに何度も登場されている厳しくも優しいY海将です。「第77回:虚礼はしない海上自衛隊」で書いたように、その後異動のたびに、私の送ったお礼状、挨拶状に対して、その都度丁寧に自筆の手紙を送ってくれたあのY海将なのです。最後に私に何も言わなかったことに、私に何かわからせたいことがあったのだろうと後になって感じられたところですが、それはおそらく、隊司令と同じことであったのだろうと思いました。

 「おおい」艦長は、業務上過失傷害として起訴されることになるため、大湊に戻った数日後には退艦して大湊地方総監部付となりました。隊司令も、翌週には異動が発令になりました。護衛艦「おおい」の幹部全員が1週間以内に異動となりました。事故を現認した幹部としては私一人が残されることとなり、翌年の3月までの7か月間、その後の事故処理対応に当たることとなり、それが本当の意味での私の苦労の始まりとなったのでした。私の心の中には、さまざまな教訓とともに、「現場のことは現場にしかわからない」ということが強く焼き付いた大きな経験となりました。

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